時代が”家族”を希求する

時代が”家族”を希求する

私たち個人は、社会的な存在である。多くの場合、顧客への、会社への一途な思いを実現するために、日々せっせと働く。そこでは、現実的に時間と労働力を社会へと提供していき、個人の生はそこで使用されていく。


しかし、家庭というのは、ちょっと違う。疲れた心身を回復させ、人間としての軸を取り戻すための再生産の重要な場である。


しかし、現代のGDP至上主義社会においては、そのインフォーマルな家庭での動きは一切反映されない。コンビニで買う夕食はGDPとして反映するが、家庭内で作った料理は、GDPに換算されることはない。よって、現代における経済社会の文脈において、基本的にそれらは無視される。


時は、経済という海と金融という大風に乗り、いつの日か、”経済的何か”によってのみ、私たちは幸せになれると信じるようになった。しかし、若手を中心に、その神話はもはや働いていない。GDPはどこまでも相対的な数字に成り下がり、未来を描くための数値ではないことを、心の深いところで理解している。


さて、そんな中で、再び家庭というところに光が向かっていく。それは、スポットライトのように突然当たる光ではなく、まさに朝日が上るようにゆっくりとした時間軸で進んでいく。しかし、スポットライトとは違い、その明るさには常に清新さを伴う。


私たちは、今、そのような現実を両手を広げて出迎えようとしている。